
加藤博一メモリアル >> 名言・迷言・エピソード

高校時代、バッティング練習の際、グラウンドに隣接する多久警察署に加藤選手のホームランボールが何度も飛んで行ってしまいました。
困った野球部は、グラウンドにネットを設置。
当時、「加藤ネット」と呼ばれていたそうです。
この話には面白いエピソードがあり、「バックネットの天辺に登れないとプロにはなれない」と言われていて、次々と天辺に登っていくチームメイトの中、加藤選手は唯一登れなかったそうです。
西鉄の新人時代、試合に出る事ができなかった加藤選手は当然のように薄給でした。
毎日の食事にも困る経済状況だったので、プロ野球選手にも関わらず、シーズンオフに「靴問屋の整理作業」「飲食店のカウンター」を始めとした様々なアルバイトをして生活をしていたそうです。
苦労の末に出場できた1軍公式戦、西鉄の新人だった加藤の初対戦の相手は南海ホークスでした。
南海の捕手は、今やプロ野球界を代表する名監督・野村克也選手。
得意の「囁き」攻撃が初打席から待ってました。
「若いね、いくつ?」と訊ねられた加藤選手は「20です」と答えたそうです。
その瞬間、ど真ん中にストライクの球が来てしまい、緊張のあまり手が出なかったそうです。
後日、再び南海戦で野村選手との再会した時、加藤選手は打席でオナラをしてしまい、捕手の野村選手はもちろん、球審まで手で仰いでしまった程の威力だったそうです。
ストーブリーグで世間の注目を浴びる加藤選手は、チームメイトからも愛されていました。
阪神在籍時、納会などでピンクレディーの物真似をして大喝采を浴びていたそうです。
また、ファン感謝デーでは、福間選手達と一緒にイモ欽トリオの物真似をして、阪神ファンから圧倒的な支持を集める事に成功しました。
1982年、阪神タイガースは11連勝したあとに8連敗。
移動バスの空気は重苦しく、チームメイトの意気も消沈していたそうです。
そこで加藤選手は、真弓選手と共に突然の馬鹿騒ぎ。
コーチが二人に、謝りながら鉄拳制裁をしてチームメイトの空気は一新、連敗脱出へと繋がったそうです。
1983年、トレードにより大洋に移籍した加藤選手。
しかし、移籍後も阪神ファンからの支持は衰えませんでした。
1985年に阪神が優勝ムードになった頃、多くの阪神ファンから「加藤。
はよ大阪へ帰ってこい。いまやったらタイガースの優勝に間に合うで!」との声援が、球場内・外で見受けられました。
当時の阪神ファンは大変厳しかったので、同じように阪神から移籍した江夏選手や田淵選手達とは違う、温かい声援を阪神ファンから受け続けたのは異例でした。
もちろん、引退後も阪神ファンからの支持は変わらず、相変わらず大人気でした。
阪神タイガースが優勝した際に発売された「臨時増刊 優勝記念阪神タイガース『丸ごと一冊大全集』」に、前・阪神タイガース宴会部長(現大洋)という名前で「ワシがおらんで何で優勝なんかするのかねえ?」と題して「僕がいない時になんで優勝するような成績を残すのですか。」とコラムを掲載。
阪神ファンからは大きな笑いが起こったそうです。
西鉄での入団会見の際、与えられた背番号は「75」でした。高校時代に中堅手だった加藤選手は「背番号8をつけるまでやめない」と宣言していました。
そんな夢の背番号「8」は、阪神時代の1981年に実現。前任者の島野育夫選手からは「ケガする番号だからやめたほうがいい」と言われ、掛布雅之選手からも「32で結果を出したんですから32が加藤さんにとって一番いい番号なんじゃないですか?」と助言されたものの、背番号「8」はプロ入りしてからの夢。
「32」から「8」への変更を行いました。
結果、島野選手が言っていた通り怪我をしてしまったという悲しいエピソードがあります。
現役時代、加藤の背番号は何回も変更になった。
西鉄時代に付けていたのが「75」「67」「35」。
阪神時代に付けたのが「32」「8」。
大洋時代に付けたのが「22」「44」。
合計7つの背番号をつけていた事になります。
大洋在籍時、フロントから「22番を銚子利夫に譲りたい」と打診を受けた時に「背番号をルーキーに取られるぐらいなら引退する」と激怒。
が、数日後には持ち前のプラス思考で「背番号を倍にしたら成績も倍になるかもしれない」と考え、44への変更を了承したそうです。
後日、背番号について関本四十四選手と対談した時には、「自分は44を『ヨイヨイ』と読んでいたが、ファンからは『シッシッ』と追い払われた」「背番号を22の倍の44にしたら成績が上がったから、今度背番号をその倍の88にしたらコーチにでもなれるかなと思っていたら、行き先が8チャンネル(=フジテレビ)だった」と発言、全国のファンに笑いの渦に巻き込みました。
加藤選手の打席でのヒッティングマーチは「蒲田行進曲」でした。
加藤選手が代打に告げられた時のスタンドからの「ひろかずコール」は、どの球場でも名物になりました。
最近では珍しくなくなった選手名連呼コールの元祖は加藤選手だったのです。
加藤選手は、スタンドのファンがきっちり3回コールするのを待ってから打席に入っていました。
闘病生活の中で、ネット上のコラムなどの執筆を主に行っていました。最終稿となった2007年12月7日には野球の星野ジャパンの話題に触れ、「しかしまだ終わりじゃありません。来年8月には北京での戦いが控えています。日本代表が成田に帰ってきた時には、胸に金メダルを下げて帰ってきてほしい!」と最後まで野球への熱い情熱を傾ける文章で締めくくっていました。